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~ 念佛寺前の通り ~
小倉山山麓のこのあたりを化野という。このあたりは都の西の死者の埋葬の地であった。この地に葬られた無縁仏を供養するため念佛寺が開創された。明治期にさらに化野に散在していた無縁仏、石仏、石像など8000体を集め、今日の形の供養をするようになった。毎年8月23・24日の両日には、石仏に一斉にろうそくが点灯される千灯供養は幻想的な情景を浮かびあがらせる。
~ 奥嵯峨鳥居本への通り ~
鳥居本は、嵯峨野地区の北西に位置し、室町時代に農業や林業を中心とした集落として開かれました。江戸時代には、火を司る神の愛宕神社への参拝道として街道沿いに茶店、料理屋などが立ち並ぶ門前町が形成されました。現在、伝統的建造物群保存地区に指定されている。
保津峡は、江戸時代の1606年(慶長11年)に角倉了以が、丹波の産物を京都に運搬するために造った水路である。今では主要な運搬物であった木材の需要が減り、観光客を対象とした保津川下りが有名である。保津川下りは、夏目漱石の「虞美人草」を始め、水上勉、三島由紀夫など多くの文学作品に登場する。保津峡は、京都府亀岡市から京都市右京区、嵐山の渡月橋に至る大堰川(保津川)の景勝地をいい、渡月橋からは桂川となる。
~ 落柿舎 ~
江戸の俳人、向井去来の草庵跡。去来は芭蕉門下十哲の一人。元禄4年(1691年)、芭蕉はここを訪ね嵯峨日記を書いている。茅葺きの屋根、土間の土壁に蓑と笠がかけられ「主(あるじ)の在・不在」を示す名残が今も残されている。去来の墓は、この庵の北裏手にある。近くには西行井戸もある。